もう何日も前のことだが6月29日にロロの「はなればなれたち」を観た。
同時期に観たり読んだり聴いたりした別の2つが(あくまで自分の中だけで)奇跡的に結びつくという感覚を味わうことがある。この「はなればなれたち」を観てそれが起こった。
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「はなればなれたち」が何と結びついたのかを説明する前に「はなればなれたち」を少し説明しておかなければならない。
「はなればなれたち」は向井川淋しい(主人公の名前)を中心としたある劇団の物語で、この「淋しい」という名前に対して「淋しいって名前? 淋しいは気持ちだよな」と観る者が思ってしまうことが重要なんじゃないかと「はなればなれたち」を観た今、そう思っている。
淋しいが劇団員たちと出会い、別れることが描かれていくのだが、どことなく全体に物悲しさが漂うのは「別れること」を前提に淋しいが様々な人たちと「出会って」いるように感じるからだ。考えてみれば当たり前のことで、別れが来ない出会いなんて無い。小学生の淋しいが同級生の潮騒と初めて一緒に帰っているとき、淋しいは潮騒に「ひとりぼっち同士、仲良くしようね」と言う。一緒にいるからと言って同一になるわけではない。一緒に帰っていてもひとりぼっち同士だということがなんだか腑に落ちてしまった。
けれど同時に、一緒に帰らなければ(出会わなければ)生まれなかった感情があるのではないかと思った。それが「淋しい」。別れが前提の出会いであっても、出会ってしまうと別れが来たときに「淋しい」と思ってしまう。向井川淋しいはそれを自分の人生を通して教えてくれている。その物語のタイトルが「はなればなれたち」だと気付いたときハッとしてしまった。「はなればなれたち」ははなればなれになったことで「淋しい」を共有した者たちのことなのではないか。
ここで最初に書いた奇跡的に結びついたもうひとつを発表したい。発表というほどでもないけど。
それは2017年のドラマ「カルテット」(ちょうどParaviで配信されてた)のワンシーン。第2話で(夫に出ていかれてしまった)松たか子演じる巻真紀が松田龍平演じる別府司に告白を受けた後に言ったセリフだ。
別府 真紀さんのことが好きです。ずっとあなたのことが好きです。あなたを捨てて居なくなった男なんかより僕のほうがずっとあなたのことを……。
(中略)
真紀 別府さん、夫がいないって言うけど、居なくなるのって消えることじゃないですよ。居なくなるのって「居ない」ってことがずっと続くことです。居なくなる前よりずっとそばにいるんです。今なら落ちるって思ったんですか?
ここで巻真紀が語る夫への想いはまさに「はなればなれたち」で淋しいや周りの劇団員たち、淋しいのことを語る佐倉すい中たちの経験する想いと同じだ、と自分の中で結びついてしまった。
「はなればなれたち」も「カルテット」も、出会いと別れを経て「淋しい」や「居なくなる前よりずっとそばにいる」という想いが生まれたところで、人生や生活は止まらないというところもなんだか共通している気がする。どちらもそういったシリアスさのすぐそばにコミカルなやり取りがたくさん用意されていて、希望が持てるという点も。