ナツノカモ『アンソロジーライブ#2〜死神の一人称〜』感想メモ

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アーツ千代田3331にてナツノカモ『アンソロジーライブ#2〜死神の一人称〜』を観た。

 

恥ずかしながらナツノカモを全く知らなかったのだが8月31日の川田十夢氏のツイートを見てなんとなく足を運んでしまったのだ。

 

 

これが非常に面白かった。元々「立川春吾」という落語家であったナツノカモが行うこのアンソロジーライブは「立体モノガタリ」と命名された形式の表現だ。舞台下手には演台が置かれ、上手奥には絵画を飾る3つのスタンド、上手手前では太田光昴がギターを弾いている。ナツノカモが真っ白な衣装で登場して演台に立ち、本を開き、声を発し始める。この日ナツノカモが披露した演目は「いつもの喫茶店で」「死神の一人称」「指先の五話」の3つ。どの演目も朗読のような部分と登場人物同士の会話劇の部分から構成される一人芝居のようなものだ。

 

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全編を通して感じたのが朗読から会話劇に入る瞬間の気持ちよさ。特に何も説明は無く会話劇に移り変わるのだけれどこれが何のストレスもなく世界を切り替えてくれる。漫才師にも「じゃあそれをちょっとやってみようか」を省略してスッとコントに入る人たちがいて、あれを思い出した。そして、この「頭の中の世界を切り替えてくれる」というのがナツノカモの「立体モノガタリ」の最大の魅力なのではないかと思う。

 

例えば「いつもの喫茶店で」は行きつけの喫茶店のど真ん中の席に座る男が四方の隣席の会話を盗み聞きするという話。真ん中に座る男のひとり語りから、左隣で「朝から缶詰を食べるって面白くない?」「面白くないよ」という問答を繰り広げる男たちに切り替わり、そうかと思えば右隣では無根拠の論理を披露する老人と帰りたがる孫、後ろの席では新宿で罠にかかったところを助けられた男と助けた覚えの無い男、正面では関係を終わりにしたい男が女に対してありとあらゆる「終わり」の表現をぶつけては「ヤダ」のひと言で片付けられている。真ん中に座る男のひとり語りとそれを聞く僕たち(観客)は点と点を結ぶ線の関係だったが、隣席の会話を聞く僕たち(観客)というフェーズに移ると奥行きが生じる。しかも、左右前後の隣席というレイアウト的にも3次元になっている。これが「立体モノガタリ」かと気付いてちょっと飛び出す絵本っぽいなとも感じた。

 

各話が終わるとナツノカモは舞台上手奥のスタンドに死後くんの絵画を飾る。これが話を聞いているときに僕たち(観客)が頭に浮かべていたイメージとの答え合わせのようで面白い。

 

2本目の「死神の一人称」は古典落語の「死神」をナツノカモが「立体モノガタリ」にするとどうなるか、といった演目。大筋の内容は落語のものと同じだったが、死神についていく男を表現するときに客席に背中を向けたり、逃げる際の走っている表現がやはり立体的で新しい。怪談のようなオチも好き。

 

3本目の「指先の五話」は夢から覚めるところから始まる五話で、一話目の男が見ていた夢が五話目の話であるという数珠つなぎの構成が楽しい。ひとつひとつの話も魅力的で、初めての大仕事に意気込んで出かけた泥棒が豪邸の子どもを盗んできてしまう話なんて途中で覚めないでほしかった。

 

それにしてもこれだけたくさんのイメージが頭の中に生まれているのに、舞台を見ると白い衣装のナツノカモと太田光昴のギターの音色、死後くんの絵画だけというのが本当にすごい。